歌詞が聴き取れない例
歌っているころは考えもしなかったことだが、合唱団を辞めて聴く方にまわると、合唱演奏を聴いて、歌詞を聴き取れない経験が増える傾向にある。合唱団員だったころは、日本語の歌詞だし、歌い方も注意しているので、聴衆が歌詞を聴き取れないなんてことは想像もしていなかった。それだけに、自分たちは歌詞の内容を伝えられなかったのか、と驚いた。私が演奏を聴いて、歌詞を聴き取れなかった実例のいくつかを挙げてみよう。男声合唱組曲「わがふるき日のうた」(三好達治 詩 多田武彦 作曲)
多田さんの佳曲である。私は歌ったことは無いが、三好達治の詩を楽譜で見ていたので、多少は記憶にあった。ところがその演奏を聴いて、歌詞がさっぱり聴き取れないし、私の周りの人たちは、プログラムに印刷されている歌詞を一生懸命追いながら聴いているではないか。(頁を繰る紙の音がうるさくてたまらなかった。) 帰途、電車の中でプロの歌詞を読んでみて、何故歌詞が聴き取れないのかが分かった。中でも独り笑いしたのは「みみず」、「みみず」と何度も聴こえたのは「みみずく」だったことだ。
まあ、言葉が聴き取れないので意味が分からないのはほぼ全体にわたるが、さらに若干の例を挙げてみよう。合唱演奏に字幕は無いので歌詞をカタカナ表記し、印刷されたかな漢字交じり文を並べてみた。
「チョウノヨウナ ワタシノキョウシュウ」→「蝶のやうなわたしの郷愁」
「ツネナラヌ カネナリイデヌ」→「つねならぬ鐘鳴りいでぬ」、
「ケイメイカ ゴギョウカ シラズ」→「鶏鳴か五暁かしらず」
これらは、文字を読んでも意味がすぐには分からないものもある。まして、合唱演奏を聴いて、「蝶のやうなわたしの郷愁」では「蝶」と「郷愁」がつながらないし、「鶏鳴」や「五暁」は対応する漢字を頭に思い浮かべることも出来ない。さらに、歌詞に繰返しは少ないから、一瞬聴き逃したら意味はもう分からない。
男声合唱組曲「春のいそぎ」(伊東静雄 詩 多田武彦 作曲)
私の大好きな詩人 伊東静雄の詩で、読んではそれほど難解ではないのに、合唱にすると歌詞を聴き取れない。例えば、「春の雪」の詩を挙げてみよう。
みささぎにふるはるの雪/枝透きてあかるき木々に/つもるともえせぬけはひは/
なく聲のけさはきこえず/まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の/しつかなるはねにかつ消え/
ながめゐしわれが想ひに/下草のしめりもかすか/春來むとゆきふるあした
上記の斜体の部分、「みささぎ」、「えせぬ」、「百ゐむ鳥」は聞きなれない古語、「枝透きて」、「はねにかつ消え」、「ながめゐし」などは、 耳には、「ミササギ」、「エセヌ」、「ヒャクイムトリ」、「エダスキテ」、「ハネニカツキエ」、「ナガメイシ」などは、仮に言葉は聴こえたとしても、聴いた瞬間にその漢字と意味を理解することは至難の技だろう。
読めば素晴らしい詩であることは理解出来るし、多田さんの作品だから、詩の言葉と意味を生かすべく、いろいろ工夫がなされているとは思うのだが、それでもこうなのだ。
混声合唱組曲「海鳥の詩」(更科源蔵 詩 廣瀬量平 作曲)
NHKの委嘱で作曲された混声合唱組曲「海鳥の詩」(うみどりのうた)は、文化庁芸術祭で合唱部門で優秀賞を受賞したから、素晴らしい作品なのだろうが、私は練習中も譜面の平仮名標記の歌詞では意味が分からず、巻末の漢字かな交じり文の歌詞を見て理解したものだ。まして、演奏中に歌詞が聴き取れない点ではトップクラスだろう。細かくは挙げないが、前後関係からは簡単に思いつかない単語が頻繁に出て来るので、かな漢字交じり文の詩を見ないと、演奏を聴いただけでは歌詞の意味を理解出来ない。
「オロロン鳥」
「コイキリニメシイ」→「濃い霧にめしい(盲い)」
「エトピリカ」
「かゼハシルイワダナノ ソウゲンニクビヲフリ」→「風走る岩棚の 草原に首を振り」
「イワダナノツチアナノ」→「岩棚の土穴の」
「ソウソウト カンモウヲナビカセ」→「そうそうと冠毛をなびかせ」
この曲は、例を挙げだしたらキリが無いほどだ。
と言うことで
以上に挙げた例は、作曲に当たって詩の選択によほど気を付けないと、こんなことになると言う意味で、合唱団員の責任では無いだろう。また、合唱団員は当然、漢字かな混じり文の詩を読んでいるし、練習で繰り返し歌っているから、詩の情景をイメージしながら、感じながら歌うことは出来る。まあ、日本の合唱演奏で歌詞を聴き取れないのはよくあることなので、メロディとハーモニーを楽しむのが日本的な合唱の鑑賞法だと、私は半分は諦めている。もっとも、日本の合唱曲で「メロディとハーモニーを楽しむ」ことが出来るかどうかは、もちろんだが、別の話である。
(2020.04.27改訂)
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